祖父から聞いた戦争の話

宗教・哲学

8月15日は終戦記念日です。

今日は、昨年末に亡くなった祖父から、私が聞いた話をブログに綴りたいと思います。

敗戦の知らせは、天地がひっくり返るような思いがした

私の祖父は東京で生まれ育ち、東京大空襲を経験しました。

終戦を迎えたとき、祖父は中学2年生でした。

当時の学校教育に染まってコテコテの軍国主義だった祖父は「日本が戦争に負けた」と聞いて、「天地がひっくり返るような思いをした」そうです。

祖父の父(つまり私の曽祖父)は「これでようやく戦争が終わった」と喜びました。それを見て、祖父は「非国民」と泣いて怒ったそうです。

宝飾品の会社の御曹司だった祖父は、戦争で工場も、都心の家も失いました。

当然、会社は倒産。それまで良い暮らしをしていた祖父の生活は一変しました。

終戦後、1年間は国をあげて戦災の後片付けをしたので、学校の授業はありませんでした。

東京・四谷の一帯は焼け野原で、祖父の兄は黒焦げの死体を何体も片付けました。

祖父はクラスメートのお母さんから情けをかけられ、もらった小遣いで、上野のアメ横の闇市でアメを売って日銭を稼ぎました。

こんな大国と戦争するなんて、日本はバカだ

祖父は、今でも新宿御苑に隣接している新宿高校へ進学しました。

当時は高校の壁を乗り越え、御苑へ侵入してキャッチボールをして遊んでいたそうです。

幼い頃からうんと勉強させられ、厳しくしつけられていた祖父は、勤勉な性格が板についており、「英語を学んで世界を広く見たい」と思うようになりました。

まだ白黒テレビもなかった時代です。

高校生になると、近所に住んでいた在日米軍の家族に頼み込み、熱心に英語を勉強しました。

教わった英語を、更に友人にも教えることで着実にスキルを身につけて行ったそうです。

当時、英語を教えていた親友の妹が、後に結婚相手(つまり私の祖母)になります。

当時は家柄の違いにうるさく、恋愛結婚も非常に珍しい時代でしたが、後に家の反対を押し切って結婚したそうです。

高校卒業後は、都内の国立大学へ進学し(石原慎太郎がサッカーしているのをよく見かけたのだとか)、卒業後、英語力を活かして商社マンになりました。

20代の終盤、仕事で初めてアメリカに渡ります。

広い道路。高くそびえたつビル群。

あまりに日本とは違うスケールの景色を見て、祖父はこう思ったそうです。

「こんな大国と戦争するなんて、日本はバカだ。」

キリスト教との出会い

戦争によって、思春期に価値観を根こそぎひっくり返された祖父は、長らく心の底で「絶対的な何か」を求めていたのかもしれません。

アメリカ駐在中、祖父はコミュニティに入って友人を作るつもりで、教会へ足を踏み入れました。

しかし、牧師と対話を重ねるうちに、神の存在を信じるようになったと言います。

洗礼を受け、クリスチャンとなった祖父は、日本へ帰国した後も仕事をしながら教会へ通い、布教活動に尽力し、信者の人々と協力して、白く美しい教会を建てました。

晩年は枯れ枝のように弱って行きましたが、最期まで「わしは死ぬのは怖くない。天国に行くから」と話していました。

戦争を否定した祖父がたどり着いた真理は、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」と教える、キリスト教の「赦し」の教えだったのです。

戦争は、人の大切なものを奪っていく

戦後76年が経った今。

戦争を経験した人も、経験を聞く機会も減りつつあります。

ふと、私はオリンピックの最中に「戦争も、こうやって始まるのかもしれない」と思いました。

国民の大多数が反対しているのに、国や国際社会の都合で、ものごとが決まっていく。

もちろん、戦争とオリンピックは全くの別物なので、今後、日本が戦争をやるということは無いとは思いますが。

開催が始まった途端、手のひらを返したようにオリンピックムードを醸し出したテレビには、思わず呆れてしまいました。

戦争も、こんな風に、なんとなく始まっていて、なんとなく世間が盛り上がっているかのようなムードが作られて。

出兵した人たちは嫌々ながらも、目の前の家族を守るために戦わざるを得なかったのかもしれません。

しかし、戦争は人の大切なものを奪って行きます。

祖父は、先祖が築き上げて来たものを一瞬で失いました。

純粋な少年の心は軍国主義に染め上げられ、そして裏切られました。

それでも、新しい未来は築けます。

けれど、戦禍の残酷な景色は一生、脳裏に焼き付いて離れません。

日本が二度と戦争しないことを祈ります。

最後に…。ムツゴロウさんの戦争体験を含むインタビュー記事が、とても良かったので貼り付けておきます。ぜひ読んでみてくださいね。→こちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました